なんにでもいえることだが、この人は信頼してよいという判断は情報を収集する上で、インターネットでも、論文調査でも、あと、ついでに生きていく上でも重要だと思う。
科学分野における情報取得においても(俺の専門の情報生物学では特に)この人の言っている主張は本当に信頼に足るのか?研究にたいする、方向性は正しいのか?というようなことから総合的に判断して、「この人は科学者として信頼に足るのか」ということを判断する必要性がある。
インパクト・ファクターが25を超えるNature、Scienceのようなモンスター論文誌でも、「マッチポンプ」的な現象を見ることがある。雑誌レベルを基準にして情報の重要性を論じていると、論文として提供される情報を自分のものにすることができない。
だが、科学には、情報発信者に対する信頼が存在しなくても、提示する情報に対して「科学的手続き」をふまえなければ行けない約束がある。よって、新人の科学者でも、恣意的な実験要素を排除し、結果として客観的に確認できる情報を提供することによって(ここに虚偽があったらもうだめだが)人々に情報を提供することができる。
だが、これがインターネットでの情報になるとちょっと話が違ってくる。
トラックバックしたR30::マーケティング社会時評のこの記事でも、取り上げられているが、2004年もいろいろ香ばしい事件があった。木村剛氏と団藤保晴氏のblogは、切込隊長にぼろくそにやられてしまったけど。
まぁ、詳細は上の記事を読んでもらうとして、こういうのを見ると、インターネットでは、感覚的に「この人は信頼できるか?」ということをきちんと判断することが情報取得のプロセスにおいて、重要なことを思い知らされる。そこには操作する側とされる側という境界が常に存在するからだ。
俺の大好きなサイト、小説家の殊能将之の日記でも、よくこの「信頼に足る人か?」という判断が登場する。殊能将之のサイトがこの概念を考えるきっかけとなったので、逆に殊能将之氏が信頼に足る人かという言及をしたときに、見られる条件を考えてみる。と、いっても、きわめて感覚的な観念として殊能将之は信頼に足るという言葉を使っているので、結局はおれの視点からみた解釈ということになるが。
・その部門の専門家であり、情報に対して、実績もしくは責任が少なからず存在すること。
にわかな人が政治、経済などを語るときは基本的には信頼できない。専門家がいない分野の場合は、まぁ、影響力として考えると良いかも。
・その情報の属する上位概念をきちんと理解していること、もしくは理解していなくても愛してること。
これはちょっとおもしろい例だが、たとえば、サッカーの松木安太郎、マラソンの増田明美などと思ってくれるとわかりやすいかも。この二人は、情報の質としては、それほどでもないかもしれないが、二人ともサッカー、マラソンという競技を心から愛してるように思う。これがたとえば、野球よりもジャイアンツを愛してる人(日テレとか)はおしなべて信用できない。
・意見をサポートするソースをきちんと示すこと。
これは、言うならば条件のあまい「科学的手続き」である。
とりあえず、この3つが重要な気がする。これらの基準は、当たり前といえば、当たり前であり、上の2つに関しては、それを判断することが困難だったりするのだが、逆にその能力こそが情報に対する力だと思う。とりあえず、この3点を意識して、情報を取得するようにするのが2005年の抱負だったりする。
まぁ、そんな感じです。