そういえば、俺の中で「この人は信頼して良いのか」リストの中で、もっとも曖昧な位置(つまり、よくわからない位置)にいるのが、山形浩生である。
といっても、まぁ、クルーグマンの訳とか、新教養主義宣言とか、あと、他にもいろいろな訳とか、ホームページとかぐらいしか読んでないんだけど、ソースをきちんと提示するし、きちんとした手続きをしてから情報は提示してるし、ついでにソフトウエア開発的な視点から見ても結構、似たようなスタンスのモノを翻訳してるしで、なんとなく信頼して良さそうな人な気がするのだが、「創発」の翻訳でもそうだったんだけど、結構、超人的な語学力(英語どころではない)で、さくさく訳すのはよいだが、自分ではあんまり評価してない本まで、訳すような適当さがある。本を買った人(つまり、俺)から言わせると、おいおい、自分で評価してないもの訳すなよ、あんたの名前で買っているところもあるんだから、という気分になる。
まぁ、要はこの人はよく言えば、柔軟、悪く言えば適当なのだ。切込隊長はそれを評して「厨房」とよんでいたけど、まさしくそんな感じもする。別に要観察ってわけでもないけど、哲学の中に適当が組み込まれている人の情報は注意して取得する必要がありそうだ。
[追記]かなり恥ずかしい、山形浩生の漢字ミスをなおしました。