オナカンさんのトラックバックを受けて、信頼できる基準についてもう少しきちんと考えてみた。
俺達は生きていく中では、科学的手続きを踏まない上で意見を述べているメディアから情報を取得しなければいけないわけで、結局俺がもっとも頼りとしている科学という方法論をベースに考えても、オナカンさんの言うように、俺の基準を採用すると、一般的なメディアでは、
となると、It’s only Love?ということになってしまい、これはいかんだろうということで、やはり少し自分で考えてみないといけないようだ。
というような結論になってしまう。オナカンさんはそこから、
全然論理的ではなく、経験則としかいいようがないのだが、自分はその人の自意識のありようというか、どのように自己言及、自分語りがなされているかを比較的注意して観察している傾向がある。わかりやすくいうと、その人が意識的・無意識的におこなっている自己言及が「痛い」場合、その度合いに比例してその人の言っていることを「信頼できない」。痛さ=マークダウン率というか、、、、全然わかりやすくないか。
という風に理論を展開しており、痛さに関する観点は、俺も同じ感覚で判断している気がする。
ここで、俺が理論を展開しても、おそらくたいした意見は言えなそうなので、case studyを行ってみる。俺が、この概念を考えるきっかけとなった殊能将之氏のサイトより、彼がどんなとき「信頼できる」、または「信用できる」という発言をしているか、いくつか見てみる。あと、殊能将之氏は俺の好きな小説「はさみ男」を書いた作家で、音楽、芸術、小説に関して、とんでもない造詣をもっている、、、と思う。(つまり、おれはこの人の意見はほぼ信用している。)では、2004年度の1月からザーっと見ていこう。
1,2004年1月後半の日記より
余談だが、わたしはコントの評価基準が「モンティ・パイソン」という輩を信用しない。最も初歩的なスノビズムだと思うからだ。コントの基本はドリフだろ、やっぱ。
うぉ、いきなり、すごいのがきたな。これは分類すると、、、なんなのだろう。うーん、まぁ、確かにコントの評価基準というか最高峰に「モンティ・パイソン」を持ってくる人はいると思う。しかし、それが例えば権威主義とか欧米至上主義とか単純に信頼できないものと直結してるかというと、ちょっとおれの知識ではわからない。しかし、殊能将之氏は確固たる基準をもっているようだ。
あぁ、ついでに、スノビズム・・・教養人を気どる俗物根性。紳士気どり。(goo国語辞典より)スノップとかってたまに言うよね。
さらについでに、その後の日記で、こんな発言をしている。
今日のテレビはいかりや長介追悼一色である。
それはいいのだが、コメンテーターが「ドリフターズはかつて低俗といわれたが、実は努力に裏打ちされた芸の重みがあって」などと得々としゃべるのが不愉快きわまりない。ドリフは低俗に決まってるじゃねえか。低俗だからおもしろかったんだよ。
志村けんが死んだときは、みんな「バカ殿様というすばらしい芸」とか言いだすんだろうなあ。
おれはこの人の感性がやっぱり大好きだ。
2,2004年4月前半の日記より
フジテレビの新番組「グータン」(4/3放送)は精神分析バラエティであるらしい。わたしはこういう占いのような(治療やカウンセリングを目的としない)精神分析はいっさい信用しないけどね。
これは同感。番組内で情報のソースもないし、なにより、精神分析をしている人が、治療やカウンセリングとった、情報の上位概念にあるものをきちんと理解してるとは思えず、理解しているならば、なおさら、このような行為は自分の受け持つ患者を不安にさせるだろうという想像力も働かないという意味でだめだめだからある。
まだまだ、かなりあるようなので、続きはまた今度。他のサイトとかもぼちぼちやってみたいです。