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簡単な現代美術の楽しみ方

なんか、現代美術館に行くのを不思議がる人がいるので、自分なりの楽しみ方みたいなところを説明してみようと思った。

まず、現代美術とは、現在生み出されながら、それが消費者によって消費され、ものによっては一過性にすぎず、今後もその作品が残るかどうかわからないものだと考えています。ポストモダンとか、ポストポストモダンとかはなんの実態もない言葉なので、適当なことを吹いていればいいんじゃないかと。次に、その分野に権威が存在してないことが現代芸術を楽しむ上で重要な要素になっています。もし、権威というか、その価値体系がある程度確立していたら、それはもう現代芸術ではないので、無視して結構です。だれかに、その考え方違うくない?と聞かれたら、もう、こんなの古典だよとか、現代芸術って枠組みじゃねーよ。と断言してしまえばいいです。

そんなわけで、普通の美術館に行ったら、俺は必ず音声作品説明機を借りますが、現代美術館では借りません。作品の背景を説明されることほど現代美術の作品にとってださいことはないのではないかと思います。

そうやって、気楽に考えると、現代芸術というものは、現在、変わり続ける多様な価値観から、なにか少し変わった、興味を引きやすい、奇抜な概念を抽出する作業と考えてしまって問題ない気がします。見たことのないものを見せる。感じたことのないものを提示する、そういう部分が現代芸術のメインですね、きっと。

僕がおもしろいと感じる現代芸術の作品は、そのような行程を多かれ少なかれメタの視点から俯瞰することで、消費財となることを遠ざけるような価値を持っています。そして、そのような付加価値がさらに消費を加速しているようです。なんか、この「赤の女王」仮説みたいな状況がなかなかいいと思います。

たとえば、イタリアのアーティスト、マウリツィオ・カテランの作品はこんな感じです。
イタリア一番の首吊りの木
http://gogomonkey.air-nifty.com/go/2004/05/post_2.html

カテランはアイロニー、ユーモアを用いて非常に辛辣な作品を発表しているアーティストだ。笑いの種類は「失笑」がピッタリ。下に引用した、隕石に直撃されてしまったローマ法王「La Nona Ora (The Ninth Hour) 」では欧米で大きな批判に曝され、反対に大きな評価にも繋がった。宗教に疎い、アジアに住む僕にでもこりゃぁ大変スキャンダラスな作品だと言うことが容易に想像ができる。

あと、2001年の横浜トリエンナーレの作品は、結構有名です。
http://www.jpf.go.jp/yt2001/cyber/artist/015_Catt/

こういう作品を発表している以上、すでに価値体系を構築すること自体を拒絶しているわけですが、じっさい、トリエンナーレの作品はオークションで6700万円の値段を付けていますから、ってことは、うまく世間では消費されているということです。

つまり、どんなことかというと、現代芸術は結局、いかに高い値段をつける消費財たりえるかが重要なのだと思います。そして、その奇抜さ、新規性に対する投資という形がもっともわかりやすい価値体系なのです。そんなわけで、ブルータスやブルータス・カーサで取り上げられるてるあたりに興味を持つというミーハーな行動が、本質だと感じます。そんなわけで、よくその辺りに取り上げられるアーティスト、ヒロ杉山、奈良美智、川島秀明、ホンマタカシ、佐藤栄輔みたいな作品とかがおもしろいと思います。ほえほえ。