ある事象が「存在しなかった」ことを証明することは、「存在したこと」を証明するよりもはるかに難しい。この「存在しない」ことを証明することは悪魔の証明と呼ばれ、とくに政治の舞台、「南京大虐殺」、「従軍慰安婦」、「イラク戦争」、「BSE疑惑」などで大活躍である。(BSEは実際に発症してるから、悪魔の証明が使えないはずなんだけど、無限に条件を細分化(何ヶ月以内は安全)することで悪魔の証明たり得てる希有の事態!!))
- 悪魔の証明 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E
「あることの証明」は、特定の「あること」を一例でも提示すれば済む。しかし、「ないことの証明」は、全ての存在・可能性について、「ないこと」を示さねばならない。したがって、調査範囲が限定されるような場合などを除き、「ないことの証明」は「あることの証明」に比べて困難である場合が多い。
そのため、通常は、証明責任は「ある」と主張する側が負うべきとされる。したがって、「あること」が証明されなければ、「ない」と見なされる。なぜなら、荒唐無稽な主張に対しても、否定する側が「そうではないこと」を証明しなければならないというのは不合理だからである。
さて、これは一般生活でもあちこちで見られる議論である。だが、上に書かれた「通常は、証明責任は「ある」と主張する側が負うべきとされる。」という鉄則が守られることはなく、自分で自分をなんとか弁護する羽目になる。
例えばであるが、だれかが、おたくであることを証明することは簡単だが、おたくでないことを証明することはとても難しい。仮にであるが、会社の同期の間で、オタク度No.1を決定した際、俺が「オタクというほど、オタクではない」ということを証明しなければならなくなったとしよう。そのとき、例えば、自分はオタクというものを「アニメ、漫画、ゲームなどのコンテンツ産業において、積極的に対価を払い消費しているもの」というかなり厳密な定義をして、議論をしているのだが、女性陣は、見た目とアニメなどに対する知識から容易に誰それをオタクだと断言する。そこで、オタクだと断言されたものは、自分はほげほげに対してはかなりのオタクだが、アニメに関してのオタクだと思われること、世の中のアニメおたくの方々に失礼なため積極的に反論するわけだが、自分が「オタクではない」ということを証明することは、前述の通り、悪魔の証明であり、基本的に立証することは不可能である。
さらに、この例はもっといろんなところで見受けられる。だれそれが巫女フェチであることを証明することは簡単だが、巫女フェチでないことを証明することは簡単ではない。フェチズムというほとんど、自分以外に評価基準が存在しないものでさえ、だれかが一方的にそうであると決めつければ、そうではないと立証することは不可能に近い。特に巫女フェチのような、反応するケースが非常に限られているものは、たまたま巫女さんに遭遇し、その場面で反応しないことを見せても、それはわざと隠していると受け取られてしまうため、もう、なにがなんだかである。いわんや、眼鏡フェチおや。
そんなわけで、フェチズムのような悪魔の証明に議論が発展しそうなケースは、かなり明確な基準を設けて、議論を行っているのですが、そのたびに逆にそこまで真剣に語れるのがおかしいということになり、最近はどうしようもないので開き直っています。