そろそろ、ゲーム業界に身を置く人間として、自分なりに考えたE3の振り返りをしようと思う。長文になるし、PS3のことにふれることはできないので、たいした落ちもないが、興味のある人だけ読んでください。
さてさて、森博嗣の新書「臨機応答変問自在」のなかで、大学生と当時建築学科助教授だった森博嗣の間で以下のような記述があった。
Q:建築分野において、計画->構造->材料->生産と発展した歴史のその先には何がくるでしょうか?あるいは何をもってくるべきでしょうか?
A:これは良い質問。こういうのを大学生の質問という。このように問題提起したことが既に答えといえる。おそらく歴史は繰り返すでしょう。
というやりとりがあり、以下のエントリーを読んでるとき妙に上の言葉を強く意識してしまった。
- Web2.0を考えるための古典
http://blog.picsy.org/archives/000349.html
コンピュータリテラシーとは、すなわち、コンピュータを使いこなす技術のことである。だが、ここで"使いこなす"というのは、決して、コンピュータ上のメディアでメッセージやコンテンツを作ることではない。つまり、アラン・ケイの定義によれば、2chやはてなやmixiでメッセージを送信しあったり、 WordやExcelで文書を書いたり、IllustratorやPhotoshopでかっこいいコンテンツを作成しても、コンピュータ・リテラシーを持っていないことになる。それでは、「メディアを作るメディア」としての特徴を活かしていないからである。
では、プログラムを書く技術があればいいだろうか。アラン・ケイは「プログラムは勉強さえすれば誰でも書ける」といいう。つまり、世の中にいるほとんどの職業プログラマーはコンピュータ・リテラシーを持っていないということになる。
アラン・ケイを代弁すれば、はてなの開発者の近藤淳也やgreeの開発者の田中良和のような人はコンピュータリテラシーをもっていることになる。近藤氏は、はてなを作る前にプログラムの素養はほとんどなく、プロのカメラマンであった。田中氏は大学時代は法学部政治学科出身で理系でさえなかった。
しかし、彼らは強い意志と優れた能力を持った特別な人たちだと、人は言うだろう。確かに、ユーザが10万人を超えるメディアを誰でもがつくれるというのは、ほとんどありえないことだ。そうではなく、誰もが自分のためにメディアを作れるようにするためにはどうすればよいか、アラン・ケイは考えた。はじめての完全に動的なオブジェクト指向言語smalltalkはそのようにして発明されたのである。
アラン・ケイは、"誰でも"をはじめから子供たちにまで広げて考えていた。子供たちでも立派に文章は書ける。だから、子供たちでも立派にメディアを作れるはずだと考えた。そしてアラン・ケイは、コンピュータを教育の道具として使うのではなく、コンピュータを道具として教えるのでもなく、「メディアを作る」教育をすることが極めて重要だという知見に基づいて、優れた教育論を展開した。
この記述の中にあるコンピューターリテラシーを持ちそれを言葉に落とせる人というのが、いわゆるビジョナリーというものに当たるのではないかと思う。そして、上の記述を読んだ後で、E3の後、日本のアルファブロガーが任天堂の岩田社長をなぜ絶賛したかを考えると納得がいく点がおおい。
- E3 2006、心を打つ一言
http://satoshi.blogs.com/life/2006/05/e3_2006.html
多くのblogがPS3批判に終始するなかで、「Life is beautiful」のsatoshi氏は以下のようなの発言をした。
新しいゲームや次世代ゲーム機に関する記事やプレスリリースを読んだが、心に残るようなものは見当たらない。「やはり行く必要はなかったな」と感じていると、突然心臓をわしづかみにするような言葉が飛び込んでくる。
...ゲーム初心者の場合、例えばどうぶつの森で、自分が眠っている間に自分の村に友達が遊びに来て、メッセージやプレゼントを残していく、そんな、毎日電源を入れるのが楽しみになるようなことが実現できます。...(任天堂の岩田社長スピーチ)
この人は本当にすごい。
「毎日電源を入れるのが楽しみになるようなこと」
あらゆるデバイスがネットに繋がり始めた今、ゲーム、ネット、AV機器、通信、メディア業界で働く全ての人たちが目指すべきものをこれほどまでにはっきりと分かりやすく示す言葉は、これ以外にはありえない。「ネットに繋げる」意味は、まさにここにある。常に「ユーザー視点」に立って語る岩田氏ならではのすばらしい言葉だ。
satoshi氏が、岩田社長の言葉に何を感じたか。それこそが、最初のエントリーで記述されるところのメディアを創る人の姿なのだ。メディアがメディアを創るという自己内包的な言葉の価値は、ゲームのようなエンターティメントコンテンツ業界において、大きな意味を持つ。ゲーム業界は常にスタンダードな第3のメディアとなることをどこかで目指してきた(少なくとも俺はそう思っている)。ウルティマのようなMMORPGではなく、Second Lifeのようなただシンプルな生活にとけ込むメディアとしての再生産的サイクルを内包したシステムをゲームの中で構築し、ユーザーがそれぞれの価値をそのプラットフォームのなかで見つけてくれれば、もしくは自己発生してくれれば、どれほどすばらしいか。多くの企業がMMORPGを展開する理由もそれである。毎回、企業として大きな博打をして、1,2,3とバージョンアップを繰り返すことで離散的にゲームを発展させなくても、一度フレームワークとして構築し大きな価値を備えたシステムの上に、さらなる連続的な発展を付け加えていくことができ、mixiのようにコミュニティが自己発生してそこにCMを打てるようなことができれば、、、なんてことを無意識のうちにでも考えていた人が多いのではないかと思う。そして、岩田社長の言葉こそが、ゲームの取るべき自己生産的連続のサイクルを形成するためのキーワードなのだと思う。コンピュータリテラシーというよりはビジョナリーとしての言葉、時代時代で指導者に求める姿があるとすれば、岩田社長は間違いなくトップクラスのビジョナリーである。
なぜ、satoshi氏がこの言葉を絶賛しているかを読み解くとその意味が明らかになる。「あらゆるデバイスがネットに繋がり始めた今、ゲーム、ネット、AV機器、通信、メディア業界で働く全ての人たちが目指すべきものをこれほどまでにはっきりと分かりやすく示す言葉は、これ以外にはありえない。「ネットに繋げる」意味は、まさにここにある。」たとえばmixiがそこにログインして日記を書き、コミュニティに書き込む作業を、ゲームコンソールにおいては、「毎日、電源を入れること」と位置づけた。DSがねらった付加価値とwiiで目指す付加価値を同じモノになるだろうと勝手に判断して、Wiiはそこまで成功しないと言っている人が多いが、毎日RSSリーダーで情報を収集し、blogに書き込み、mixiを見る人からみたら、「Wiiの次のねらいは、俺たちが毎日楽しみにしているこの行為を社会に広げることか」と感じたと思う。RSSリーダーが多くの人に必要かと言われたら答えはNoだろう。ただ、RSSリーダー、blogが提供する楽しみそのものが多くの人が求めるかと聞かれたら、それはYesとしかこたえようがない。そういう意味で、Web2.0と呼ばれる現在の現象をゲーム業界に落とす方法として、この「毎日電源を入れるのが楽しみになるようなこと」をとらえなければならない。同じ、ゲーム業界にいて、このビジョンを提示した岩田社長に賛辞を送るとともに、コンピュータリテラシーとビジョナリーという言葉の意味をしっかり考える必要がありそうだ。
追記:ただ、任天堂はゲームに関しては徹底的に個人特定要素を排除しているので、単純にmixiやポストペット、Second Lifeのようなシステムは期待できない。ただ、DSがゲームソフトを買わなくても対戦はできるように、ゲームを買わなくてもある程度遊べ、ゲームを買うとさらに遊べるというシステムを体験版とは違う形で提供してくるのは間違いないと思う。パイさえ広がれば、ソフトの売り上げは後からついてくるし、いったんいままでゲームと関係なかった層を巻き込めば、任天堂伝統のもっともゲームらしいゲームで売り上げを稼げるのは「テトリスDS」や「 ニュー・スーパーマリオブラザーズ」で証明済み。その変のあまりにも見事な流れはこっちに詳しい。
- 「ライトユーザーには強いが、ゲーマーには弱いDS」という神話
http://amanoudume.s41.xrea.com/2006/06/post_214.html
そういう意味では、企画力とゲームコンソール開発能力とソフトウエア開発力をそなえた恐ろしい会社だ。