なんかハワイに関していまいちうまく感想を書けないから「フラット化する世界」を読んでの感想。
フラット化する世界(上)
トーマス・フリードマン 伏見 威蕃
フラット化する世界(下)
トーマス・フリードマン 伏見 威蕃
内容の総括はいろいろなところで行われているので、他所にまかせるとして「フラット化する世界」を読みながら抱いた危機感について考えてみた。
フラッシュメモリ4Gを積んだiPod nanoが2万円程度で売られたとき、「中のフラッシュメモリをとりだして売れば儲けがでるんじゃないの?」なんて台詞をよく聞いたが、フラット化する社会の中で強力なサプライチェーンの中に組み込まれたパーツはそれ単品が市場に出回るよりも大幅に安い値段になることがありうる。それ単体で書いたら当たり前のことだが、これがエンジニアなどの人的資源に起きてくるのがフラット化する社会で描かれた世界である。とくにエンジニアが扱う「情報」というものは、一瞬にして世界中を飛び回るので、人材が他所に潤沢にあれば、陳腐化する人材は急速に陳腐化していく。日本は日本語という壁があるのでいまのところ問題は表面化していないが、この流れは不可避のようだ。それを踏まえた上で、ソフトウエアエンジニアはできるだけ自分を代替のきかない社交性のあるアウトソーシングの難しい人材になることを模索しなければならないなんて書かれている。このどうしようもない流れの中で自分を変えなきゃいけないっていうのが危機感の元だよな。なんか自分はそんな方向に向いてない気がするし。うーん。なんか、この本を読んでからいろいろ悩むようになった。これはきっといいことなのだろうと思うけど、これから何周するんだろう、この感じが。