先日、ポッドキャスト「眼鏡とgamellaのサブカルパジャマトーク」の収録をよしこさん、大学の同期だったslnsyndicateと一緒に行ったのですが、そこで「○○なう」が如何に気持ち悪いか、という話を少ししました。ちょうどこのタイミングで以下のエントリーがはてぶにあがっていたので、ちょっと「○○なう」について考えてみました。
30過ぎのジジイが「・・・だお」と言っているのと同じ感じがする
たしかに気持ち悪い○○なう
○○なうっていう言葉をTwitterでつぶやく行為は傍目からみるとやはりちょっと気持ち悪いです。○○なうは、僕はここにいるよ、僕はこの状態にあるよということを宣言していることですが、ちょっとそれに対して何か反応を期待しているような、自意識が見受けられます。
さらに○○なうは、その行為自体を極めて完結かつステレオタイプに行う行為ですので、今までは自覚的に行わなければいけなかった行為がお手軽に行えるようになっています。たぶん、この今まではかなり自覚的に行わなければいけなかった行為が○○なうにつつまれることによって、気軽に行えるようになってしまうこと、その行為自体に無自覚なことに対して気持ち悪いと感じる人がいるのではないかと思います。あと、「なう」が語尾につくこともなんとなくアニメっぽいですね。
このような気持ち悪さというものは、新しいメディアが現れると良く見られる現象です。ブログも最初登場したときは自分の意見を述べること自体が気持ち悪いこととして受け止められていた部分があると思います。
秋月パルスの可能性
そういえば、最近、よしこさんが、「秋月パルス」をポッドキャストなどで取り上げます。秋月パルスとは簡単にいうと自分の脈拍を測る装置とTwitterを連携させ、脈拍に応じて「俺、生存なう」、「俺、頻脈なう」、「俺、叙脈なう」のようなつぶやきを行う装置です。
上のエントリーにある、以下の一文が非常に印象的でした。
おかじ「もし、俺が死んだとき、インターネットの仲間に向けて"俺、昇天なう"って投稿できたら、それは、革命なんだよ。」
確かに死んだときに「俺、昇天なう」という言葉を投稿できたら、それはなんとなく革命と呼んでいい気がします。自分の情報を仲間と共有しようとする姿勢を突き詰めたときに、自分の死さえも自分から発信することができるなら、インターネットはさらに多くのものを共有できる場所になります。○○なるの気持ち悪さを考えるということは、秋月パルスをどのように考えるかにつながっています。
この違和感はなにか巨大なシフトの前兆なのか
この○○なうと秋月パルスを見て、インターネットとつながる時に人間は自分という意識も含めて、コンテンツとしてつながっているんだなと思いました。
最近、ブログやニュースなどの発信コストが高かったメディアから、Twitterのような自分の状態や感情さえも発信できるメディアへインターネットがどこまでシフトできるのかを注目している人が多いと思います。このシフトにより、コンテンツを消費できる速度が加速しており、いろいろなニュースやエントリー、写真、動画が一瞬で消費、評価されていく場をただただ眺めている人も多いのではないでしょうか。たぶん、このスピードに慣れることができず、Twitterになじめない人も多いと思います。たぶんそれが通常の感性です。
ただ、自分の状態さえもインターネットに流れるコンテンツとして仲間と共有することで、いままでは不可能だったコミュニケーションが産まれ始めているんじゃないかという気がしています。なんとなく、この場に政治などいままで我々が直接的に関わることができなかったたものを絡めることができれば、インターネットの次の可能性が見えてくる気がします。ただの私感ですが。
そんなわけで
なんとなく○○なうに対する違和感は現在起きているシフトに対して感じる得体の知らない違和感が原因なのではないかと考えています。これが、Twitterという特殊なメディアが産み出した短期的な傾向なのか、今後さらなる発展を見せる胎動なのかはまだ判断ができていないのですが、なんとなく○○なうには今までになかった魅力を僕は感じています。といっても、○○なうは僕もまだ気持ち悪さを感じているのですが、最近は結構つぶやいてみたりしています。