ネットメディアの世代交代という言葉をigiさんのtwitterでたまたま発見した。
そういえばこの前のdankogaiとちきりんさんの話は一定の反応があったなあー、と思った。
上記エントリーではtwitterでうける内容、うけない内容という文脈で、比較したが、そもそも世代交代的な視点もあるのか、と思った。そんな視点で、dankogaiのブログ「404 Blog Not Found」を改めて読んでみたが、dankogai氏のあまりのぶれてなさに驚いた。あるテーマがあった時のエントリーがまずぶれない。これは落ち着いたというより、軸がすでに存在していて、その軸を基準にブログを書くということが呼吸になっているのではないかと思った。
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洗濯機型ネットメディアとは
洗濯機型ネットメディアとはなんなのかというと、そのメディアにあるテーマを放り込むとそのテーマが洗濯機で洗浄され排出されるイメージである。その人の主義主張にとって不純な部分は元のテーマから洗浄されており、よりわかりやすくきれいになってくる。ただ、洗濯の過程で爽やかな匂いや柔軟剤的なモノで、元のテーマと本質は変わらないもののその洗濯機型ネットメディア特有の処理が適用されている。
このように考えると、勝間氏がひろゆきというテーマを全く扱えなかった事例は興味深い。
ひろゆきとのトークは勝間氏の軸に存在しなかったひろゆきという異端児を勝間氏が処理できなかった事例として注目を集めた。ただこれは異文化交流的なあらたな価値を生み出すような接点ではなく、勝間氏という洗濯機にひろゆきという洗えない異物が投げ込まれた事例であり、その洗濯機が壊れる様をみんな楽しんだのではないかと思う。よって、勝間氏はまたひろゆきと対談すると言っているが、この先も洗濯機が故障する様はみれても、あらたな価値、考えは誕生しないのではないか、と思う。
ネットメディアの世代交代
ただ、「洗濯機型ネットメディア」という概念を作ってみたものの極限してしまえば、ネットメディアは多かれ少なかれ洗濯機型であり、それ自体は特に注目すべき点でもない。例えば、TopHatenarではてなダイアリーで一位に君臨するfinalvent氏を考えてみる。
TopHatenarで一位に君臨するfinalvent氏は極東ブログという論説ブログをはてなダイアリとは別に続けており、僕も非常に楽しみに読んでいる。
極東ブログの価値を考えてみてもスタンスはぶれてないが、他のブロガーとの違いは世代的な言説なのだと思う。それはfinalvent氏がたびたび言及する吉本隆昭的な影響でもありそうだ。単純に僕はfinalvent氏以外に、その世代が持つべき知識を備えた人のブログを知らないし、恐らく一定の更新頻度を保っている人となるとかなり少ない。僕が知らないだけもかしれないけど。
ネットメディアの世代交代とは極限すればその世代が備えるべき知識を備えた人があらたな体系としてあらわれ、その世代としての言説を構成することなのではないかと思う。では、僕たち20代が備えるべき体系的な知識とは何だろうか、と考えた時、その漠然とした形のなさに驚く。例えば、僕が自分の考えの中で大きく影響を受けたものといえば、リーチャード・ドーキンスやジョン・メーナードスミス、ジャレド・ダイヤモンドなどの生物学的人類史であり、検証こそ難しいがそのプロセスは科学だ。なんとなくだが、ネットメディアの持つシニカルな特性が科学以外の体系を構築すること自体を拒否しているのではないか、などと考えてしまう。
案外、新しい体系というのはgoogle的な検索ベースの思考法やTwitterのようなフローの中に出現するかもしれないが、それが登場した時、その存在を自分が体系とみなせるかどうか、まだよく分からない。